50代うすぼんやり生きています

50代のあれやこれや、管理人「凡子」が関わってきた今昔を綴っていきます

勝った負けたの優劣の世界に生きない選択もあるんじゃないかと思う案件

どうも凡子です。

ときどきすごく戦ってる人を見かけます

何と戦っているかと言うと、自分以外の他人。相手が自分より上か下かっていうことを、いつも判断して「勝った負けた」をやっている人。

あの人は仕事ができるできない、頭がいい悪い、女子力が高い低い、身に付けてるものがいい悪い、お金があるない、出世してるしてない、家柄がいい悪い、顔が可愛いとかそうでもないとか、上司に可愛がられているとかいないとか、いろんなことを他人と比べている。
自分より相手が上だと判断すれば劣等感を感じて、自分より下だと見れば優越感を抱いて見下して、ということをいつもやっている。

周りの人は、全部敵です。

勝った負けたの優劣の世界に生きない選択もあるんじゃないかと思う案件

そういう人を見かけると、「あ~戦士だね」と凡子は思います。
凡子はへっぽこ、ポンコツなので、人と比べると当然負け戦が多くなるので、まずそういう闘争のフィールドからは降りています。

で、この戦士、生まれながらの戦士で、戦士であることに誇りと自覚を持って、楽しく戦士をやっているならいいんですが、戦っている人の中には、ただただ苦しそうに戦士をやっている人が混じっています。

子供が学校に入ると、運動ができるとか成績がいいとか競争の世界に投げ込まれるので、相手が自分より上か下か、人より優れているかどうかは重要な問題です。家でも兄弟で比べられたり、「隣の〇〇ちゃんは成績もよくお手伝いしてくれるのに、あんたは」とか、やられるので、気が抜けません。

自分の立ち位置がどのあたりにあるかを見極めて、切磋琢磨して努力したり、向上心を持つことは、尊く素晴らしいことだと凡子も思っています。

だからこそ、多くのことを達成できたり成果も上げられます。

ただこれが行き過ぎて、自分が人より優れているかどうかだけが重要と思ってしまうと、苦しいことなんじゃないかなと思ったりします。

上だと思う人が現れれば劣等感を抱き、下だと感じれば優越感を抱くって、実は根っこは同じだよね、とも思うわけです。

優劣の世界に生きている。

比べる対象が変わることで「おれってあいつに比べて、すげえじゃん」と思って幸せになったり、「こいつには全然叶わない」と感じて苦しくなる。

仏教用語では、これを「苦楽一如(くらくいちにょ)」なんて言うらしいです。

苦しみ、幸せといっても一如、つまり紙の裏表のようなもの、一体のものと言うわけです。

それにそもそも、優れているとか感じる種目は、自分が決めているわけで、「自分は仕事の処理スピードがあいつより優れている、勝った」とか思っていても、相手は「俺のコミニケーションスキルはあいつより優れている、勝った」と思っていたら、何を持って勝った負けたというのか、わけわかんないという話になります。戦う種目が多くなれば、そんなに簡単に勝ち負けの判断が下せないので、そもそも無意味なんじゃないかとも思います。

まぁ、自分が勝てる分野か、自分にはそれが価値あると思っている分野で勝負ってことなんでしょうが。

いや~、でもね、人と比べることが自分の喜び、「オレは、私は、生まれながらの戦士よ」という血気盛んな人は、どんどんやって突き抜けていけばいいと思います。スポーツなどで見せてもらえる圧倒的な闘争心は、見ていて清々しいです。勝負する相手は選んでほしいとは思いますが。間違ってもこっちに向かってこないように、お願いしたいものです。

ただ、戦士じゃないのに戦士しかないと思い込まされて、選択肢がなくて戦士をやっている人には「ジョブチェンジもあるよ」と、小さな声で言っている凡子です。

そういう人は一見戦っているようで、「私は人より優れているから、この世界に存在してもいいでしょう?」と、必死で自分の価値や優位性を誰かに証明し続けているようにも見えて、痛々しいのです。そのままの自分じゃダメだと思っているから、自分の価値を必死にアピールしないといけなくなる。

雄々しく戦っている人に、こんな感情を抱くのは失礼千万かもしれません。

それでもやっぱり、「証明なんかしなくても、あなたの居場所はあるよ。それを自分が自分に許せるかどうかだけなんじゃないの?」と、思ってしまうのです。
戦士から降りても、別に何かを成し遂げられなくなるわけじゃありません。人と比べる価値観を、ちょっと緩めるってだけです。

やっぱり小さな声で、「ジョブチェンジもあるよ」と言ってしまう凡子なのでした。

 

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