親と子供は違う価値観で生きている
尊敬するブロガーのかこさんが、「母親が子供に植え付ける罪悪感」について書いていらっしゃいました。
絵が抜群に上手で、とてもあたたかい人柄のかこさんが抱える思い。
読んでいて、胸がえぐられます。
かこさんのように壮絶では全くないのですが、母に思うことはたくさんあり、実際に少し書いてみたら、呪詛に満ちた禍々しいものがじゃんじゃん書けました。あまりに禍々しいので、さくっと要約すると、うちの母は、まぁ小言、説教が多い。
でなければ、愚痴、誰かの噂話、マイルール、自分がこんだけやってあげたから感謝しろという話。
それをマシンガントークでぶっぱなしてきます。
ちなみに、小言、説教の内容っていうのは、まぁほぼ家を片付けろという話。母とは離れて暮らしているが、うちに来くると、まずそれを言っている。
凡子ももう50歳。半世紀も生きてるし、家が片付かないのも、もう個性。片づけたいとは思っちゃいるが、人って「勉強しなさい」「片づけなさい」「何かしなさい」と言われると、余計やりたくなくなるのはなぜなんでしょう。
うちのダンナがそう不便を感じてないなら、もうそれでよくない?
「私も50代だし、そろそろ小言やめてくんない?」と、おずおずと母に話を切り出したことがありました。
「そういえば近所の知り合い、もう60いくつで、かよちゃんって言うんだけど、いまだに親戚のお姉さん、その人80いくつなんだけど、その人から、会うたびに顔洗ったの?って聞かれるって嘆いているなぁ。ははは」という答えが返ってきた。
なんでも聞けば、かよちゃんは、小学生の頃、あまり顔を洗わない少女だったのだという。それを知っている、かよちゃんの親戚のお姉さんは、かよちゃんが60代になっても、そのネタを毎回振るのだという。かよちゃん会ったことないけど、めっちゃシンパシー感じます。
で、母よ。何がはははだ。嫌すぎる。60代になって、小学生の頃できなかったことを言われるなんて。おせっかいがすぎるっちゅうもんじゃないの!?
母もそうだが、人を導いてあげなくてはという強い使命感に突き動かされている、完璧すぎる人は、人に対してあーしろ、こーしろという小言、説教が多い。
それはある意味素晴らしいことだが、一歩間違うと、管理やコントロール、干渉だったりするんだぜ。
母やかよちゃんの親戚のお姉さんの説教はまだかわいいものですが、それが行き過ぎてしまう人がときどきいます。
息子が成人して思うことは、そのときどきで、自分が最良と思えることを教えてきたつもりだけど、
人生観や価値観といったものと一緒に、めちゃくちゃ主観とか、偏った考えとか、フィルターや認知バイアスなんかも一緒に伝えていたよねっていうこと。
自分が身に着けてきた価値観とか道徳観って、ところ変われば品変わる的なもので、時代や場所によっては、全く違う場合があって、結構流動的なものだと思うわけです。
子供は親を見て育つから、何かしらのモデルは必要で、それが親なんだけど、一つのモデルってだけで無二のものなんかじゃない。その辺の認識を、親はちょろっと頭の隅に入れておいた方がいいんじゃないかと思ったりして。自分が絶対とか、絶対思わない方がいい。
子供は親のいいなと思ったところを取り入れればいいし、そうじゃなければ取り入れなければいいし、親とは違う価値観を得ていくのが、成長なのかと。
だから、子供がある程度大きくなったら、「親の言うこと聞くのが一番」とか、「親のいうこと黙って従っていりゃいいの」とか「あんたの為を思って言ってるのがわからないの!?」とか言うの、どうなんだろうって思います。
あんたの為って、親の為だったりするしね。自分の価値観と違うことをやるのが許せないってことを、そんな風に言い換えてるだけだったり。
子供も、親と価値観が違うことに罪悪感なんか抱かなくていいと思うの。それは感謝とは別のもの。
何かしてあげることが愛情って思ってしまうけど、子供が転ばないようにいつも親が手を出してあげるのがいいことじゃなくて、子供が転んで、でも一人で起き上がる。そういう子供が持っている力を信じてあげることが、愛情なんじゃないかと、凡子的には思ったりします。
はがゆいし、手を出した方が手っ取り早いけどね。
相手の価値観を認めて見守ることが、尊重ということじゃないでしょうか。
だからね、母よ。凡子の家が汚くてもさ、ゴミ屋敷と呼ばれる家に比べたら、凡子は全然小物でさ、全然たいしたことないので、この際、許容範囲に入れてくんないでしょうか。
いや、凡子も努力しないわけじゃなくてね、集中力を上げるとか、断捨離して豊かになるとか、そういうアプローチで将来的には頑張ろうと思いますので。
えっ、いますぐやれって!? 時間感覚も違うんだな~これが。