50代うすぼんやり生きています

50代のあれやこれや、管理人「凡子」が関わってきた今昔を綴っていきます

人が物事を認知する能力って、結構精度が悪いんじゃないかと思う話

人が物事を認知する能力って、結構ハンパ、精度が悪いんじゃないかと最近思うようになりました。

そばにいる人と、同じ体験をしていても、全く捉え方が違うな~ということがちょくちょくあります。例えばダンナ、同じことについて話していても、感じ方が180度違うので、あまりの違いに愕然とするというか、下手するとケンカ勃発とか、そういう事態に発展しそうになります。

人が物事を認知する能力って、結構精度が悪いんじゃないかと思う話

 そういうとき、思わず自分の我が出てしまいそうになりますが、ダンナにはダンナの言い分があって、理解はできないけど、それがダンナにとっては大事なことなんだろうなと思います。

人は、肉体に閉じ込められているので、個というものを通してしか、物事を捉えられないのかもしれないなぁと思ったり。

性格や生きてきた環境や経験、思い込み、価値観、信念とか、多分そういったものを通して見ている。

起きる出来事はニュートラルというかフラットというかなんだけど、個は、自分を生かすことが大事、いい目をみさせてやりたい、楽させたいと思っているので、個が思うところの、いいとか悪いとかを判断し始めるわけです。

いい悪いって、その人にとっていい悪いってだけで、他の人が見ればまた違う。
そこに意味づけを与えているのは、その人自身。相手のことを考えて、とか思っても、それはその人のフィルターを通しての、相手のことだったりするわけです。

う~ん、厄介。

世界がただそこにあるように、「あるがまま」には捉えられなくて、頭の中で変換して再構築しないと捉えられない。主観を通さないと、世界を解釈できない。その意味で歪んでいると思うわけです。

一人一人みんな違っているから、一人一人見ているものが違う。同じ世界を見ているようで、全く違う世界を見てる。

もう千差万別。そりゃ、ケンカも起きるよ。

赤ちゃんの頃はもっとフラットに世界を見ているはずなので、年齢を重ねるということは、成長とかよりよくなっているという見方もできるし、沢山の歪みを取り込んで熟成させているともいえるんじゃないかと。

そんなんだからさ、この考えが正しいとか、高尚だとか、素晴らしいとか、自分のいうことは絶対とか、これしかないとか、声高に叫ばなくてもいいんじゃないの?と、思うようになりました。
自分の正義感とか価値観にのっとって、がががっってやらなくても、「私はそう考えるけど、あ~そういう考えもあるね」くらいで。こっちの方が正しいって、やりたくなるけど。相手の言っていることがわかんなくても、少なくともそこに尊重は、必要だろうと。

正しさにこだわりすぎると、自分の正しさと誰かの正しさの違いで苦しみます。

自分のものの見方って、世界を解釈する為の、ただのストーリーでしかない。
こんな記事を書いてること自体も主観じゃないのかと言われれば、まぁその通りで。

ただね、歪んでいるといってもそこに絶望はしてなくて、それぞれ歪んでいるからこそ面白いじゃないかとも思うわけです。

で、きれいな歪みを持っていられたらいいな、と。あくまで、自分にとってですが。

とりあえず、自分を大事にしつつダンナにも愛を(笑)

 

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